あごひげと子作りの帝王 ~解決編~ [珍史・笑史・驚史]
「サッカーチームを作れるくらい子どもが欲しい」という類の台詞をよく耳にします。つまりは、11人以上ということですね。少子化が進むこの時代、11人も子どもがいたら、かなりの大家族といえます。ですが、「サッカーチームを作る」なんて志の低いことでは駄目です。甘い、なんてもんじゃありません。
そんなわけで、前回の続き、「ファトフ・アリー・シャーには何人の子どもがいたか?」という問題の解答です。
ペルシア語年代記『ナーセホ・アッタヴァーリーフ』によると ――
実に260名の男児と女児が、直接的な帝王の子として現れた。そのうち159名は、父親の死亡の際にすでに亡くなっていた。101名は存命で、57名が男、46名が女だった。男系の孫のうち、588人の子女が健在であった。そのうち、296名が男児、292名が女児であった。女系の孫のうち、97名が健在であった。47名が男児、50名が女児であった。
ゆえに、以下のことが明らかだ。かの帝王がこの世界から去った時に、786名の子どもたち孫たちが存命であったのである。 (・・・後略)
というわけで、ファトフ・アリー・シャーの子どもの数は、(分かっているだけで)260人でした。なんと、徳川家斉の5倍弱。つうか、本人死亡の時点で存命だった男児の数だけで、家斉の子の数を越えてるし・・・・・・。サッカーチームを作るどころか、サッカー大会を開催できます。
さて、注意深い人は気付いたでしょう。史料によると、ファトフ・アリー・シャー死亡の時点で存命だった子の数が101名なのに、その内訳は、男57人、女46人。・・・・・・計算が合ってない!?
こういうときは、別の史料も参照しましょう。『ロウザト・アッサファーイェ・ナーセリー』の記述によると、「全部で101人、うち男が53人、女が46人」だそうです。男児の数が下方修正されてますが・・・・・・やっぱり計算が合ってない!!
さらに別の史料、『ファールスナーメイェ・ナーセリー』には、「彼が死んだとき、存命だった帝王の息子は53名、娘は46名。孫の数に至っては数え切れないくらい」とあります。こちらは、最初から計算を放棄しています。
まぁ、こんだけ数が多いと、±2名程度は、誤差のうちなのでしょう。±1%未満の誤差なんて、どうってことありません。







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